名称 | 守一山 学運院 無能寺 しゅいつざん がくうんいん むのうじ |
本尊 | 阿弥陀如来 あみだにょらい |
宗派 | 浄土宗 |
宗祖 | 法然上人(1133-1212) ほうねんしょうにん |
本山 | 総本山 知恩院(京都) 大本山 増上寺(東京)ほか |
浄土宗とは
徳川将軍家が帰依したことでも知られる浄土宗。
浄土宗の教えは、「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」の「お念仏」をとなえて、阿弥陀如来の極楽浄土へ生まれること(往生)を願うというもの。
このお念仏の教えを掲げ、法然上人が鎌倉時代の承安5年(1175)に開いたのが浄土宗です。
お念仏とは
浄土宗のお念仏は「南無阿弥陀仏」と口に出して、おとなえすること。
「称名(しょうみょう)」とも言い、阿弥陀如来の名前を呼ぶことです。
「南無」は、インドの言葉「ナマス(namas)」を漢字にしたもの。インドの挨拶「ナマステ」の語源でもあり、相手への最大の尊敬、絶対の信頼を表現しています。
つまり「南無阿弥陀仏」は、「阿弥陀さま、どうぞお導きください、お救いください」という願い、頼る気持ちで阿弥陀如来に呼びかけることです。
- 正確には「ナマス(namas)」が変化した「ナモー(namo)」の音写。
- 「ナマステ(namaste)」は「ナマス(namas)」に、「あなたに」という意味の「テ(te)」が合わさった言葉。インドでは挨拶の時に合掌してお辞儀をするのですが、この動作が仏教と結びついて日本に伝わったとされています。
阿弥陀如来とは
阿弥陀如来には代表的な別名が2つあります。
ひとつは、量りきれないほどの光で照らす、という意味の「無量光仏(アミターバ)」。
もうひとつは、量りきれないほどの寿命を持つ、という意味の「無量寿仏(アミターユス)」。
ふたつに共通する「アミタ(amitā)」は、インドの言葉で「量りきれないほど(たくさんの)」という意味で、これを漢字にした「阿弥陀(如来・仏)」が一般に定着するようになりました。
阿弥陀如来は、名前の通りどんな人にも届くように、限りない救いの光で人々を照らし、尽きない寿命で永遠に救い続ける、そんな仏さまです。
- アミターバ(amitābha)=無量の「アミタ(amitā)」+光「アーバ(abha)」
- アミターユス(amitāyus)=無量の「アミタ(amitā)」+生命「アーユス(ayus)」
極楽浄土とは
仏さまの中には自分の国(仏国土)を持っている仏さまもいます。清らかな国土であることから、「浄土」と広く呼ばれるようになりました。
現在、浄土の中では、薬師如来の浄瑠璃浄土、そして、阿弥陀如来の極楽浄土の2つの国が有名です。
阿弥陀如来の建てた国は、浄土の中でも「極めて」「安楽な(=精神的にも肉体的にも苦しみのない)」世界なので、極楽浄土と呼ばれます。
極楽浄土は、この世(娑婆世界)の西の方角にあって、心地よい音が響き、穏やかな気候だとされています。
また、極楽浄土に生まれた(往生した)方同士は、また極楽浄土で再会できるとも言われています(俱会一処)。先に往かれた大切な方とまた会えることが、阿弥陀如来によって約束されている場所でもあるのです。(『阿弥陀経』)
- 浄瑠璃浄土は、伝統芸能「浄瑠璃」の語源でもあります。薬師如来などの神仏が登場した物語を演じていたことに由来するとされています。
- 何故極楽浄土が西にあるのか、仏典には明言されていません。太陽が東に上ることを「生」、西に沈むことを「死」と結びつけていたことから「阿弥陀如来が死へと向かう人々を極楽浄土で救いとろうと西に建てた」とする説があります。(道綽禅師『安楽集』下)
なぜ「お念仏」で
「極楽往生」を目指すのか
仏教では、苦しみや悩みから自由になる「悟り」に至るための、さまざまな修行の方法が説かれています。
お経を読む、座禅を組む、瞑想をする、山籠もりをする……簡単なものから、大掛かりなもの、難しいものまで、多種多様です。
字を読むことすら一部の人に限られていた鎌倉時代。学問を学ばなくても、長いお経を覚えなくても、金銭が、時間がなくても、どんな人でもどこでも出来る易しい修行はないか。
あるいは、悩みや、悲しみ、怒りといった感情、ああなりたい、こうじゃないとイヤだという欲望を持つ、弱い自分。そんな「凡夫(ぼんぶ)」でも救われる教えはないか。
法然上人が、沢山の経典や論文を紐解き、ついに出会った修行方法。それが、お念仏です。
阿弥陀如来は「私の国(極楽浄土)へ生まれ、あらゆる苦しみから離れたいと願うなら、私の名前を呼びなさい。そうすれば煩悩の有無に関係なく、必ず極楽浄土へ迎え導きます」と誓い(本願)を建てています。
阿弥陀如来の「本願」を信じて、阿弥陀如来の名前であるお念仏をとなえ、安楽の地、極楽浄土に生まれ、悟りを得る。
それは、行うのはとても易しく、それでいて、この上なく素晴らしいに違いない。 850年前の鎌倉時代から、浄土宗という宗派はこのお念仏の教えを受け継ぎ、今に伝え続けています。
- 阿弥陀如来の本願とは、法蔵菩薩(阿弥陀如来が菩薩だった時の名前)が阿弥陀如来になるにあたって建てた四十八の誓いの中の、第十八願目のことを指します。
もし我仏を得たらんに、十方の衆生至心に信楽して、我が国に生ぜんと欲して、乃至十念せんに、もし生ぜずんば、正覚を取らじ
『無量寿経』(和文)
私が仏となる時、あらゆる人が誠に信じて私の国(極楽浄土)に生まれたいと願い、私の名前を呼んだとして、もし、(その人が極楽浄土に)生まれなかったならば、私は仏になりません。
いつもの生活とお念仏
浄土宗では、いつでも、どんな時でもお念仏をおとなえしてください、とおすすめしています。お葬式の時や、お仏壇の前だけでなく、時や場所に関わらず、思い立った時「いつでも」です。
特別な準備が必要のない、お念仏だからこそ、仕事や家事など日々の生活、その合間の、ほんの数秒。大切な方のために。あるいは自分のために。お念仏をおとなえしてみませんか?
初めには ものうかりしが いまはまた
無能上人『勧進詠歌集』より
念仏せざれば わびしかりけり
無能寺開山、無能上人の和歌です。「物憂かりし」は「面倒だ」くらいの意味。最初は面倒に思えたお念仏。けれど、続けるうちに、となえていないと淋しく思えてしまった。そんな心が表されています。
私たちが、南無阿弥陀仏、と阿弥陀如来の名前を呼ぶとき、阿弥陀如来もまた、そのお念仏の声を聞き、私たちを想ってくださると言われています。(善導大師『観経疏』)
心細くなった時、自分の弱い心に負けてしまいそうになった時、「南無阿弥陀仏」と、阿弥陀如来、阿弥陀さまのお名前を呼んでみてください。声は必ず阿弥陀さまに届き、私たちを見守ってくださいます。